私は大学生の時にKCC&Tの学びに参加しました。勉強を始めたきっかけは、将来の夢であった教師という仕事に、心理学の知識が必要だと思ったからです。
人のためにと思って始めた勉強でしたが、勉強を進めるうちに自分の問題にも気づき、精神的に大きな変化、成長がありました。私はこの学びを、就職、結婚・子育てをする前に学べてとても良かったと感じています。現在KCC&Tでの学びが、仕事選びや人間関係に活かされています。今後も結婚や子育てにおいて、この学びが大いに役立つと思っています。
私がKCC&Tで学びたいと思ったのは、次のようなことからでした。私の通っていた教会と職場で出会う人々の中に、多くの心を病んだ人がいて、その方々にどのように対応すれば良いのか悩んでいました。教会では信仰を持てるように導き、職場では「うつ」や「パニック障害」の方に丁寧に仕事の指導をしても、なかなか良い結果に結びつきませんでした。その方たちの苦しみは、人生に直結した心の叫びや経済的問題です。自分のやり方が的を射ていない気がしているけれど、どこが違うのかが解かりませんでした。そんなとき、KCC&Tの「こころのケア」は、聖書に基づいたものだと聞いて、“学びたい”と言うより“学ばなければならない”という気もちでした。
実際に学び始めると、私は続けて参加していけるか心配になりました。メンバーは優秀な方ばかりで、私はと言えば心理学の知識など全くないのです。でも、最初のレッスンで「あらゆる分野の人が学ぶことができ、ケアを行う可能性があり、プライベートな話をされやすい職種の美容師やタクシーの運転手など、また、単に友達や家族を助けたいという人も…」とあり、私の求めているのはこれだと知らされて勇気をもらいました。またその中の「心のケアを必要としている人」という箇所で、私自身の問題が具体的な文字となって、私の中に入ってきたのです。劣等感・自己卑下・時々襲ってくる不安・「ノー」と言えない自分・受身の人生、「人生脚本」など。それは行き詰った私に大きな変化をもたらすものとなりました。
私は「ノー」と言えるようになり、ある人との共生関係を修正し、「わたし」の人生を歩む楽しさを味わっています。まだまだ変化の途上ですが、「人の助けになる」と思って始めた学びが自分自身のためでもあったことに気づきました。自分自身が整えられていく中で自分を愛したいと思えてくると、もっと愛が湧いてきて神様への感謝と周囲の人々への愛が増してくると実感しています。
自分を変えるための訓練をさせてくださる場を提供し、受け入れてくださっている、KCC&Tとメンバーの皆様に心から感謝します。
娘の知人からKCC&Tのこころのケアの講座のことを聞き、興味を持ち受講してみたいと思いました。ただ、2年間という長期間で、60歳半ばの自分が続けられるか不安でした。
「なぜ私が苦しまなければならないのか」「なぜ、私の人生には困難があるのか」と悩み、効率至上主義を最優先とする社会の中で“生きづらさ”を抱えている人たち。私自身も含めて大勢いるのではと感じます。教会にも悩みや苦しみを抱えている方が来ます。祈りや聖書の御言葉を通して励ましや助けを与えることはできますが、(もちろんそのことも大切なことです)その人たちをどのようにサポートしたらよいのか、具体的なことはわかりませんでした。こころのケアの学びを通して視野を広げ、理解を深めて励ましや助けを与えることができたらいいという思いで決心しました。
講座の中で「傾聴」というこころのケアの方法を学びました。苦しんでいる人が自分の苦しみを理解するには、自分のことを話す必要があり、そのために話を聴いてくれる人が必要なのです。しかし、ただ話を聴いて共感し感情移入するのではなく、相手の立場になって理解することが重要です。真に聴くことは難しいことですが、苦しんでいる人が信頼を寄せ受け入れられていると感じられるよう、少しずつ傾聴のテクニックを実践して身に着けていくことができるようになりたいと思っています。
自分自身の問題で役に立つ学びもありました。「境界線」の学びです。なかなか「ノー」と言えない自分が存在していました。その結果、疲れ果てストレスがたまったり、恨みがましい気持ちになったりすることがよくありました。そこで小さなことから「ノー」と言えるようにし、断ることに罪悪感を覚えないようにする訓練をしてみました。境界線を確立することで、自分を大切にし、自分らしく人生を歩んでゆくことができるという気づきを与えられました。
こころのケアによって新たないのちの始まりを感じ、希望を取り戻せるように神は招いてくださいます。基礎講座を修了し、専門講座も学ぶことができました。主に感謝し、また支えてくださったスタッフの方々、共に学んだ仲間の方々に感謝します。私の人生の中でこころのケアの学びはとても貴重なときとなりました。
私が心のケア講座を受けた動機は、当初は、周囲にいる心を病んでいる人たちの力になりたいと思ったからでした。どのように接して彼らが立ち直るのを支えることができるのか、逆に、悪い接し方はどのようなものなのか、専門的な知識が必要だと思いました。
学んでいくうちに、これは、他の人のための学びではなく、私自身に必要な学びだと気づきました。私自身、癒やされる必要がある、と気づいたのです。
たとえば、人間関係で問題をひきおこす“ドラマの三角形”を学んだ時に、「これは私のことだ!」と驚きました。まさに私と母と妹の関係でした。母と妹に 諍いがあると、私に電話がかかってきて、どちらも相手が悪いと訴えてきます。 非常に長くかかるその電話に、胸を痛めつつも、げんなりしていました。でも、相談を受けることで、自分が役立っているように感じ、ある意味楽しんでいたことも確かです。
この“ドラマの三角形”に陥ることを避けることが、一番の解決策だと知って、目が開けました。それからは、「2人の問題は、お互いに直接話し合って」と、電話があるたびに話し、50年続いてきたこの関係から抜け出すことができました。
また、心の中の3つの人格について学んだ時に、自分が、人の言いなりになってしまうことが多く、自由にふるまうことがなかなかできない問題をもっていることに気づきました。感情を抑え、怒りを表すことも、楽しむことも少ないのです。テキストのアドバイスに従って、五感を大切にすることを心がけています。
一番大きな問題は、自分と他者をはっきり区別する境界線が確立していないことだと思われました。 幼いころから集団の中で育ち、「集団の一部としての自分」という意識が強いようです。自分の意志より、集団全体のことを優先する習慣が身についているのです。いつも妥協し人の言うことばかり聞くことは、人に依存することにもつながります。夫や子供にも依存して、なんでも決めてもらうことが多い、何かやりたいことがあっても、ちょっと反対があるとやめる、(人の意見を聞か ない頑固な部分もありますが)そういう感じでした。
今は、境界線を正しく引けるように励んでいる途中です。意見を主張したり、NO!と言えるように、少しずつ進歩していると思います。娘からも、「ママ、確かに変わった」と言われました。
もう1つ、これは学んでよかったな〜と思って実践していることは、「自分で 自分を励ます」ということです。自分を励ましていいんだ、という考えは画期的でした。「自分に厳しくしなければならない」という思い込みがあって、何かというと、自分の失敗を責めたり、いつまでも否定的に考えたりするくせがありました。でも、ほかの人に対してするように、自分に対しても、優しく慰めたり、励ましたりしていいんだ、ということに救われます。 「だいじょうぶ、次はきっとうまくいくよ」「またチャンスがあるよ」と、自分に声をかけて、気持ちを切り換えるようにしています。
過去の記憶の中の、傷ついた子どもの自分に、現在の大人の自分として声をかけて慰めることも実践中です。心の深い部分で癒されて行くとき、また、変 わっていけるんだろうな、と思います。この年齢で、まだまだ変わっていけることを期待できることは幸せなことですね。まだ途上ですが、こころのケア講座で学んだことを生かして、自分も癒され、またまわりの人たちの力にもなれたら、、、と望んでいます。
東日本大震災による原発事故で、私は福島の家を追われ、2011年3月末に「奥多摩福音の家」にお世話になることになりました。
夏頃、KCC&Tの方が来てくださるようになり、他の方たちがカウンセリングを受けてよくなっているのを見て、私も受けてみようという気持ちになりました。その時の私には、震災によってこれからどうやって生きていったらいいのかという不安だけでなく、震災以前からの、平安を感じられない思いがありました。話したことで、随分心が軽くなりました。これまでの私は、ものごとに流され、また相手の感情を害さないようにふるまっていたことにも気づかされ、それによって自分も傷ついていたことを知りました。今回カウンセリングを受けたことで、自分の心の底ときちんと向き合うことができ、八十を越えた私が、生まれ変わったように感じました。
震災はつらいものでしたが、KCC&Tの方に出会えたことに本当に感謝しています。
以前の私は、生きているのがつらくて何をする気にもなれず、できることなら何もせずに餓死してしまいたいとさえ思っていました。子どもの頃、親から虐待を受けていたので、誰も、何も、自分自身さえ信じられなくて、その苦しみを誰にも話すことができず、生きていても死んでいるのと同じようなものだと感じていました。
でも、KCC&Tのカウンセリングを受け始めてから、少しずつ自分の中で何かが変わってくるのがわかりました。人を信じられるようになり、楽しいことや自分のしたいことなど、将来のことを少しは前向きに考えられるようになってきました。
今はもう死にたいとは思わなくなりました。